建築家ストーリー
11月18日(日)「私の生き方」シリーズ第4回を開催しました(一般社団法人みやざき公共・協働研究会主催、当法人協力)。
今回は、国富町で工務店を経営されている長友仁さんでした。その内容をまとめてみました。
父親が若い頃、上京し、私は東京都八王子市で生まれた。とても活発な男の子だった。父親の転勤で5歳の時、宮崎に移住。母親は東京の人だったのですごい田舎で大変だったと思う。私は恵まれた自然なかで、年齢に関係なくいろんな友達と自由に遊んだ。当時は上級生からよく殴られたりしたが、いじめとは思わなかった。風呂焚きもして面白かった。
本庄小、本庄中ではサッカー部に所属。宮崎大宮高校に進学したが成績は悪かった。ただ授業は聞いていた。数学と古典は面白く、家庭科の裁縫で褒められたことが忘れられない。
4年生大学への進学は難しく、東京にある職業能力開発総合大学校に入学した。親元を離れ、遊び放題で過ごす。無免許でバイク事故を起こし、アキレス腱が溶け、8か月入院した。身体的障害の可能性もあった。入院中、いろんな人との出会いがあり、その体験がひとつの転機になった。
大学は退学するつもりだったが、父親の叱咤激励で再上京し、21歳で1年遅れで大学を卒業した。そのまま東京の工務店に就職。同業者でいろんな仲間ができ、自分たちで茶室を作ったのは自信になった。
勉強と仕事は違うことを実感。負けん気が強く、見返してやるとの思いで頑張った。常にメモ帳を持参し、聞いたこと、気づいたことはメモした。大工1年目で家屋建築を任された。すごいリスクだったと思うが親方の度胸を感じた。
5年間修行するつもりでいたが、3年で実家に帰された。それはすごく心残りだった。26歳で宮崎に帰り、長友工務店に入る。父親は技術が高く、修行にのめり込んでいった。当時、工務店には貴重な材木がたくさん置いてあったが、ある時、家屋も一緒に火事で全焼し、途方にくれた。
名刺に肩書が欲しく、大工仲間で1級建築士を目指す。仲間は性格は荒いが繊細の人が多く、独立して頑張っていた。父親は中卒で1級建築士を取得しており、それは目標になった。負けたくないという劣等感を力に変えた。
27歳で1級大工技能士を取得。1級建築士を目指したが4回も落ちた。今でもその夢を見る。29歳で取得。学歴ではなく資格が大事だと今でも痛感している。
父親は建築に加えて、介護の方に手を伸ばしはじめ、会社が迷走し始めていた。借金も多く、一番きつい時であったが、私が32歳になった時、会社を継ぐことになった。それが2回目の転機となった。父親もつらかったと思うが、建築1本に戻し、そこから自分の人生が始まった。
自宅をモデルルームにして、お客さんに見てもらい、アンケートを取る中で少しづつ注文が増え始めた。最初に受けた仕事が、高級材の再利用で訴訟になり、とても苦しんだ。その悩みを、本を読み、人の意見を聞きながら、解決策を学んでいった。
まず、自分が誤り、相手の意見を聞く、感謝するなど、自分が変わらないといけないことを学んだ。その間、従業員が自殺したり、甥がバイク事故で死んだりして、生きることをいろいろ考えさせられた。
今、経営7年目だが、常に悩みはある。その度に本を読み、解決した人の話を聞いてきた。人に聞くことは勇気がいるが、その体験が財産になる。
39歳になって、今、人のために、これから生まれてくる子どもたちのために、役立つことをしなければと思い始めている。幸せってやはり他人の役に立つことだと思う。どんなにお金を稼いでも、地域や社会に貢献しているという思いがなければ幸せは感じられない。
それとある程度のリスクは引き受けないといい仕事はできない。ケガすることを考えていたら何もできない。子育ても同じだと思う。ひとつのことに打ち込むことが大事だと思う。
仕事のかたわら、木育(子どもやすべての人びとが、木とふれあい、木に学び、木と生きること学ぶ)に取り組んでいる。手触りの良さや手作りの面白さを子どもたちに体験してもらいたいと思っている。
以上、時間を大幅にオーバーする話でしたが、飽きさせることなく(それだけの人生ドラマがあり)、とても参考になる内容でした。いつもながら、もっと多くの人に聞いてもらえたらと思ったことでした。